2022/08/19
すごくすごく、小さなこと
おっと、7年ぶりのブランク。
パスワードすら失念していたのに先ほど気付きました。
サイトも直してません。
(近々直すと思います)
今更ですが長年失礼しており申し訳ない限りです。
近況は‥生きてます。細々と。
創作関係はまた改めて記すこととさせて頂いて─
諸々失礼したままで申し訳ありませんが、
その辺ご容赦いただくとして‥(すみません)
今日はちょっと思うことがあったので、
お話しにお付き合いいただけます方には
つらつらと、以下‥
近しい親族に降って湧いた病状が思わしくなく、
残された時間も僅かに垣間見えて折、
気の置けない日々にて、積もる年月を省みては
悔やむやら情けないやら、残念な思いや自責の念やらを感じては
心に嘆息ばかり溜め込んでいたりしています。
及ばぬ自らの所業態度は直視せぬくせに、
思いばかり傍の家族にぶつけるのもどうかと思いつつ、
しかしどうしても口をついてしまうよろしくない性癖。
そんなことを言っても仕方ない、自分以外の、それこそ苦しんでいる当の、
大切なの人にそんな話を向けても致し方ない、
それでは何の埒も開かない、
ゆえ、自分語りにこの場に少しだけ吐露しておきます。、
端的に、ことの起こりは親族の苦しい病状の発出から、
その後の一時退院後の生活への移行─
看取るのに介護の手を借り、役所の手続き、お金の整理。
諸々は家族が行い、自分はその一部始終を見聞きするだけ。
その多くは膨大な手間と時間と、精神的負担、一方で些末な事務手続きの繰り返し。
事務手続き、事務手続き‥々々。
折しも、叔母が認知の病いで施設に入所したと伝え聞き、
人の晩年の、生き道の分岐やその終着先に考えが及んで。
自分とて通らぬ草路ではありません。
働いて、生活して、動いて、経験して、
人と交わり、人と話し、人と付き合い、人と生活し、
人のいる社会で生きて、人の間で身の振りを習い、
人の足痕を辿り、人の耳目に触れ、そして自分を感じる、
生きていることを知り、自分の足を踏み出し続け、立ち止まり、振り返る。
生きている間、人は誰かと話し続けるのです。
認知の病いに罹った叔母は、長いこと家族と離れ、飼い犬と話していました。
飼い犬とのみ。
外出し仕事もしていましたが、あるときから症状が悪くなり、
実子とも離れて暮らしていた叔母は、以後家で一人で過ごすことに。
飼い犬とだけ。
件の親族は、元々そうではなかったのですが、大病にて施術の際、
薬の影響が大きく、軽く同様の症状に苛まれてしまいました。
しかしその発症発見の前から、連れ合いを亡くし、
仕事に通いつつも一方で家宅ではテレビが屋内の唯一の供。
それ以外は何ありましょう、賭け事、煙草。
病床にあっても、その後宅に戻り、また病院と往復する中も、
人と話す機会は‥
いえ、親しい仲の人と話す機会はありません。
遠くの兄弟、遠くの実子。
家に話し相手はいません。
もちろん、この時代ですから電話があります。
スマートな電話。
しかし声だけです。文字だけです。
用事を伝え、諸々の話を伝え、感情や状況を伝え‥
それだけは古に比べれば便利ではありますので、
いくらでも可能なことは叶います。
ですが、そこに吐息はありません、
匂いもありません。
家族の、近しい者の目視できるリアクションはありません。
無視されているか、そうでないのか、関心があるのか、面倒なのか、
それを測ることは叶いません。
ただ、音声だけ。ただ、文字だけ。
一緒にいて、同じ場にいて感じられる、息遣いはありません。
同意はあるかも知れませんが、頷く冗語はありません。
あっても言葉が返ってこないことがあります。
まして時差(タイムラグ)すらあります。
こちらの話題や返信への応えが、望んだ言葉で帰って来ることもあれば、
誤った冗句や暴言、愚痴への応えが、実は呆れ憤りながらも、
ときに気を遣った言葉に変わることもあれば、
何ら求めていない文句や罵詈になって戻ってくる可能性もある。
求めているものと違う、でも求めているものをはっきり言い表せない。
言い表せない、のでなく、求めているものの表象は、言葉のかたちを成さないのです。
求めているのは感情なので。
感情なのです。
表情なのです。
言葉の表情こそが感情であり、感情は、言葉だけでは言い表せない。
そこにあるのは時間と、空間と、空気と、温度と、匂いと、
そこはかとない繋がりの実感です。
共有しているその場の全てで、それは言葉では表せないもの。
用事や状況報告や、事実や事件や事象を語ることや、
今の感情を言い表すことは言葉で、
音(声)で、文字で、端的に表す、伝えることは可能です。
ですが、そのいずれでもない、些末なことはどうでしょう。
例えば、窓の外を眺めて、
月が綺麗だ、と思ったとき。
煙の匂いが漂ったとき。
救急車のサイレン。
地震かな?という揺れ。
テレビで今流れた台詞、音楽、画像。
どこかで聴いた音楽。
もしかしたら思い出の‥
その感想。
その感情。
その些細な言葉を誰か受け止めてくれるでしょうか。
その空気と空間と時間と事実を。
「茶柱が浮いた」的な話は誰も聞いてくれない。
「あのときの味」を語り合う人がいない。
そこにあるのはただ、恐ろしいことだけです。
静寂。静か過ぎる孤独。
話すべきこと、伝えるべきことは、
音や文字で、電波に乗せて遥か彼方にまで届けられるのに。
用事でないこと、必要でないこと、
某かの返答に値することでないこと、
ましてそのときの喫緊で応答を要することでないことは
表象のあやふやな、感情や、感覚や、表情や、雰囲気や、
言葉で伝えづらい、香りや、音声や、味覚や、姿や、
共有しえないと通じない、体験や、記憶や、思い出。
伝わらない言葉があるように、
言葉で伝わらないことは数えきれないほどある。
誰か、人が、傍に、
一緒にいて、一緒に見聞きし体験し、共有し、
或いは更に共感して初めて、
その事象は存在するのです。
その場に某かの人同士が存在しないと、それは伝わらないのです。
その存在と、その体験への共有がないと、
それは存在すらしていないのと同じ、
なかったことになってしまう。
いつの間にか、いえ、瞬時に霧散してしまう、儚い霞や靄のようなもの。
共有する人がいないと、
共感する人がいないと、
その表象は存在しないのと同じなのです。
共感こそが人の繋がりの楚なのではないでしょうか。
飼い犬やテレビは、その体験を聞いてくれません。
聴いてはいるかもしれませんが、応えません。
犬は、表情を見てはくれるでしょう。
ですが、完全に100%必要な、脳の言語中枢に刺さる応え方はしてくれません。
何らかのアルファ波は出してくれるかも知れません、
こちらにそれが出るきっかけは与えてくれるかも知れません。
(医療的にはその方面で、ペットを飼っている人は惚けや認知になりにくい、また、その治りの介助にもなるという研究成果も謳われていますし、私も一助はきっとあるとは思います)
共有されないのです。
存在していることを否定してすらいるのです。
電話でも同じ。
音声でも、文字でも、そこに体験や記憶の共有はありません。
ただただ、事務的な、音、と、文字。
それだけ。
煙の匂い、救急車のサイレン。
遠くを往き去る飛行機。
流れる雲、雲から顔を出す月。
雨の雫。
水の冷たさ。お茶の味。
ごくごく、極々、些細な事。
とてもとても、小さなこと。
その小さなことの繰り返しが記憶であり、体験であり、
その共有と、共感があって、
初めて人は、人同士は互いに繋がる。
そして繋がりが人の個人の価値を自覚させ、奮い立たせ、
人を孤独から救い、社会の中に足を踏み出させ、
楽しむ活力を与え、生きていくための杖となり支えとなり術になる。
些細なことの繰り返しと、些細なことの積み重ね。
記憶、そして誰かとの共有、
同じ時間、空気、空間、色、光、音、味、香り、感情、それらの共有。
そのことを分かち合う体験、共感。
晩年に一人でいることは、その共有と共感の機会を失い、
それは孤独への防衛力を著しく損ない、
人の持っている力を剥ぎ取り、
生きている支えを破壊することに繋がる。
繋がりの断たれた世界は、暗黒なのです。
人が生まれて人、つまり社会と、つまり家族と、
共有を始めた後、それがずっと続いた後、
共有する人がいなくなると、そこが人の終わりになる。
それが往き着く先、
終焉の入り口なのだと。
病に倒れたり、某かを失っても、そこにまだ人は誰かいる筈ではある。
でもそれが、その傍の人が、
その人と機械的にしか繋がらなかったら、
そこに共感や共有がなかったら、
やはり孤独の往き路の終わりは暗澹と近付き始め、
飲み込まれて閉じて、終わりになる。
あっという間に。
介護や、手当や、助力や、手続き。
それは勿論、殆どのウェートを占めている。
大事なことはたくさんある。
それが当面大事なことでは、もちろんある。
ただ、人の人としての人たる所以、人の大事な構成部分、
立っているための、存在するための、
その維持と形成は、
すごくすごく、小さくて微かで、しかし日々、どうしてもなくてはならないもので成り立っている。
とても些細で、とてもとても小さなことの筈なんだけれど。
そこを忘れないで、
記憶に留めて欲しい。
介護も医療も補助も手助けも、もちろん必要なのだけれど。
そこに人が介在する限り、きっと人は立ち直るのだから。
人が介在する真の理由を、
じつはそれが、そのほんのわずかなことの大事さにあるのではないかと。
人はそれを必要としている。
苦しみを共有すること、
共感している、今、改めてそう思う。
(‥とりとめがない文、語句の羅列になってしまいました‥ メモ的書き殴りとお赦し下さい。
反省。後日見返して手を入れるか書き直すかするかも知れません。
むしろ、短い小説にして起こし直したいです。)
パスワードすら失念していたのに先ほど気付きました。
サイトも直してません。
(近々直すと思います)
今更ですが長年失礼しており申し訳ない限りです。
近況は‥生きてます。細々と。
創作関係はまた改めて記すこととさせて頂いて─
諸々失礼したままで申し訳ありませんが、
その辺ご容赦いただくとして‥(すみません)
今日はちょっと思うことがあったので、
お話しにお付き合いいただけます方には
つらつらと、以下‥
近しい親族に降って湧いた病状が思わしくなく、
残された時間も僅かに垣間見えて折、
気の置けない日々にて、積もる年月を省みては
悔やむやら情けないやら、残念な思いや自責の念やらを感じては
心に嘆息ばかり溜め込んでいたりしています。
及ばぬ自らの所業態度は直視せぬくせに、
思いばかり傍の家族にぶつけるのもどうかと思いつつ、
しかしどうしても口をついてしまうよろしくない性癖。
そんなことを言っても仕方ない、自分以外の、それこそ苦しんでいる当の、
大切なの人にそんな話を向けても致し方ない、
それでは何の埒も開かない、
ゆえ、自分語りにこの場に少しだけ吐露しておきます。、
端的に、ことの起こりは親族の苦しい病状の発出から、
その後の一時退院後の生活への移行─
看取るのに介護の手を借り、役所の手続き、お金の整理。
諸々は家族が行い、自分はその一部始終を見聞きするだけ。
その多くは膨大な手間と時間と、精神的負担、一方で些末な事務手続きの繰り返し。
事務手続き、事務手続き‥々々。
折しも、叔母が認知の病いで施設に入所したと伝え聞き、
人の晩年の、生き道の分岐やその終着先に考えが及んで。
自分とて通らぬ草路ではありません。
働いて、生活して、動いて、経験して、
人と交わり、人と話し、人と付き合い、人と生活し、
人のいる社会で生きて、人の間で身の振りを習い、
人の足痕を辿り、人の耳目に触れ、そして自分を感じる、
生きていることを知り、自分の足を踏み出し続け、立ち止まり、振り返る。
生きている間、人は誰かと話し続けるのです。
認知の病いに罹った叔母は、長いこと家族と離れ、飼い犬と話していました。
飼い犬とのみ。
外出し仕事もしていましたが、あるときから症状が悪くなり、
実子とも離れて暮らしていた叔母は、以後家で一人で過ごすことに。
飼い犬とだけ。
件の親族は、元々そうではなかったのですが、大病にて施術の際、
薬の影響が大きく、軽く同様の症状に苛まれてしまいました。
しかしその発症発見の前から、連れ合いを亡くし、
仕事に通いつつも一方で家宅ではテレビが屋内の唯一の供。
それ以外は何ありましょう、賭け事、煙草。
病床にあっても、その後宅に戻り、また病院と往復する中も、
人と話す機会は‥
いえ、親しい仲の人と話す機会はありません。
遠くの兄弟、遠くの実子。
家に話し相手はいません。
もちろん、この時代ですから電話があります。
スマートな電話。
しかし声だけです。文字だけです。
用事を伝え、諸々の話を伝え、感情や状況を伝え‥
それだけは古に比べれば便利ではありますので、
いくらでも可能なことは叶います。
ですが、そこに吐息はありません、
匂いもありません。
家族の、近しい者の目視できるリアクションはありません。
無視されているか、そうでないのか、関心があるのか、面倒なのか、
それを測ることは叶いません。
ただ、音声だけ。ただ、文字だけ。
一緒にいて、同じ場にいて感じられる、息遣いはありません。
同意はあるかも知れませんが、頷く冗語はありません。
あっても言葉が返ってこないことがあります。
まして時差(タイムラグ)すらあります。
こちらの話題や返信への応えが、望んだ言葉で帰って来ることもあれば、
誤った冗句や暴言、愚痴への応えが、実は呆れ憤りながらも、
ときに気を遣った言葉に変わることもあれば、
何ら求めていない文句や罵詈になって戻ってくる可能性もある。
求めているものと違う、でも求めているものをはっきり言い表せない。
言い表せない、のでなく、求めているものの表象は、言葉のかたちを成さないのです。
求めているのは感情なので。
感情なのです。
表情なのです。
言葉の表情こそが感情であり、感情は、言葉だけでは言い表せない。
そこにあるのは時間と、空間と、空気と、温度と、匂いと、
そこはかとない繋がりの実感です。
共有しているその場の全てで、それは言葉では表せないもの。
用事や状況報告や、事実や事件や事象を語ることや、
今の感情を言い表すことは言葉で、
音(声)で、文字で、端的に表す、伝えることは可能です。
ですが、そのいずれでもない、些末なことはどうでしょう。
例えば、窓の外を眺めて、
月が綺麗だ、と思ったとき。
煙の匂いが漂ったとき。
救急車のサイレン。
地震かな?という揺れ。
テレビで今流れた台詞、音楽、画像。
どこかで聴いた音楽。
もしかしたら思い出の‥
その感想。
その感情。
その些細な言葉を誰か受け止めてくれるでしょうか。
その空気と空間と時間と事実を。
「茶柱が浮いた」的な話は誰も聞いてくれない。
「あのときの味」を語り合う人がいない。
そこにあるのはただ、恐ろしいことだけです。
静寂。静か過ぎる孤独。
話すべきこと、伝えるべきことは、
音や文字で、電波に乗せて遥か彼方にまで届けられるのに。
用事でないこと、必要でないこと、
某かの返答に値することでないこと、
ましてそのときの喫緊で応答を要することでないことは
表象のあやふやな、感情や、感覚や、表情や、雰囲気や、
言葉で伝えづらい、香りや、音声や、味覚や、姿や、
共有しえないと通じない、体験や、記憶や、思い出。
伝わらない言葉があるように、
言葉で伝わらないことは数えきれないほどある。
誰か、人が、傍に、
一緒にいて、一緒に見聞きし体験し、共有し、
或いは更に共感して初めて、
その事象は存在するのです。
その場に某かの人同士が存在しないと、それは伝わらないのです。
その存在と、その体験への共有がないと、
それは存在すらしていないのと同じ、
なかったことになってしまう。
いつの間にか、いえ、瞬時に霧散してしまう、儚い霞や靄のようなもの。
共有する人がいないと、
共感する人がいないと、
その表象は存在しないのと同じなのです。
共感こそが人の繋がりの楚なのではないでしょうか。
飼い犬やテレビは、その体験を聞いてくれません。
聴いてはいるかもしれませんが、応えません。
犬は、表情を見てはくれるでしょう。
ですが、完全に100%必要な、脳の言語中枢に刺さる応え方はしてくれません。
何らかのアルファ波は出してくれるかも知れません、
こちらにそれが出るきっかけは与えてくれるかも知れません。
(医療的にはその方面で、ペットを飼っている人は惚けや認知になりにくい、また、その治りの介助にもなるという研究成果も謳われていますし、私も一助はきっとあるとは思います)
共有されないのです。
存在していることを否定してすらいるのです。
電話でも同じ。
音声でも、文字でも、そこに体験や記憶の共有はありません。
ただただ、事務的な、音、と、文字。
それだけ。
煙の匂い、救急車のサイレン。
遠くを往き去る飛行機。
流れる雲、雲から顔を出す月。
雨の雫。
水の冷たさ。お茶の味。
ごくごく、極々、些細な事。
とてもとても、小さなこと。
その小さなことの繰り返しが記憶であり、体験であり、
その共有と、共感があって、
初めて人は、人同士は互いに繋がる。
そして繋がりが人の個人の価値を自覚させ、奮い立たせ、
人を孤独から救い、社会の中に足を踏み出させ、
楽しむ活力を与え、生きていくための杖となり支えとなり術になる。
些細なことの繰り返しと、些細なことの積み重ね。
記憶、そして誰かとの共有、
同じ時間、空気、空間、色、光、音、味、香り、感情、それらの共有。
そのことを分かち合う体験、共感。
晩年に一人でいることは、その共有と共感の機会を失い、
それは孤独への防衛力を著しく損ない、
人の持っている力を剥ぎ取り、
生きている支えを破壊することに繋がる。
繋がりの断たれた世界は、暗黒なのです。
人が生まれて人、つまり社会と、つまり家族と、
共有を始めた後、それがずっと続いた後、
共有する人がいなくなると、そこが人の終わりになる。
それが往き着く先、
終焉の入り口なのだと。
病に倒れたり、某かを失っても、そこにまだ人は誰かいる筈ではある。
でもそれが、その傍の人が、
その人と機械的にしか繋がらなかったら、
そこに共感や共有がなかったら、
やはり孤独の往き路の終わりは暗澹と近付き始め、
飲み込まれて閉じて、終わりになる。
あっという間に。
介護や、手当や、助力や、手続き。
それは勿論、殆どのウェートを占めている。
大事なことはたくさんある。
それが当面大事なことでは、もちろんある。
ただ、人の人としての人たる所以、人の大事な構成部分、
立っているための、存在するための、
その維持と形成は、
すごくすごく、小さくて微かで、しかし日々、どうしてもなくてはならないもので成り立っている。
とても些細で、とてもとても小さなことの筈なんだけれど。
そこを忘れないで、
記憶に留めて欲しい。
介護も医療も補助も手助けも、もちろん必要なのだけれど。
そこに人が介在する限り、きっと人は立ち直るのだから。
人が介在する真の理由を、
じつはそれが、そのほんのわずかなことの大事さにあるのではないかと。
人はそれを必要としている。
苦しみを共有すること、
共感している、今、改めてそう思う。
(‥とりとめがない文、語句の羅列になってしまいました‥ メモ的書き殴りとお赦し下さい。
反省。後日見返して手を入れるか書き直すかするかも知れません。
むしろ、短い小説にして起こし直したいです。)
2010/12/08
2010/12/07
文明人なら法に頼らず自立すべき~育成条例改正案で考えること
「東京都青少年健全育成条例改正を考える会」主催、「コンテンツ文化研究会」協力による
「『非実在青少年規制』改メ『非実在犯罪規制』へ、都条例改正案の問題点は払拭されたのか?」
という主題の集会が12/6、東京中野で開かれました。
1000人以上集まると嬉しい、という事前の呼びかけでしたが、
事後の公式発表では1500~1600人と会場に入れない人でごった返すほどの凄い人で、
twitterなどWEBでの告知や呼びかけもあって、関心の高さが伺えました。
ネット配信などもありましたので視聴された方もいるでしょうし、
関係する先々や多くの方々の発言や、一部報道などで趣旨や様子は拾って頂くとして―
(長いので以下に折り込みました)
「『非実在青少年規制』改メ『非実在犯罪規制』へ、都条例改正案の問題点は払拭されたのか?」
という主題の集会が12/6、東京中野で開かれました。
1000人以上集まると嬉しい、という事前の呼びかけでしたが、
事後の公式発表では1500~1600人と会場に入れない人でごった返すほどの凄い人で、
twitterなどWEBでの告知や呼びかけもあって、関心の高さが伺えました。
ネット配信などもありましたので視聴された方もいるでしょうし、
関係する先々や多くの方々の発言や、一部報道などで趣旨や様子は拾って頂くとして―
(長いので以下に折り込みました)
2010/08/20
2010/07/11
Election of assembly member of the House of Councilors
参議院選挙、投票に行って来ました。
今までは、仕事でも早朝都合よく行けるなど殆ど選挙には行って来たのですが、
今回ばかりは「期日前投票」を利用すれば良かったかなぁ、と初めて思いました。
投票所(近所の小学校)に人がかなり並んでる!
参議院が全国区比例、という制度のせいで、名簿に候補者が多過ぎるんですね。
年配の方にはギリギリの文字の大きさだったかと思います。
加えて自分の住む地域では地方議会議員選挙もありましたので。
朝方は私よりも若い方はあまりお見かけしませんでした。
ココで漫画の記事でも度々取り上げている、国会での「児童ポルノ法」や
東京都の「青少年育成条例改正案」と、表現規制の問題。
今回は個人的にこの問題を焦点に絞って投票に臨みました。
珍しく、支持政党とか従来の政策などと別にして。
連日新聞などで比較的大きく取り上げられている、政治とカネの問題や、
普天間問題や消費税、社会福祉問題には全く見向きせず・・というわけではないのですが。
果たして東京都の「30号議案」は6月の議会で否決されましたが―
(まだ秋から2回ほどあるので分かりません。
今回の都議会議長だった田中良氏は辞職して杉並区長に立候補という展開になっていますし・・)
はてさて、国政の方の結果はどうなるか・・
このまま夜か明日にでも追記すると思います。
----
・・体調は回復中。ラクガキや片手間仕事、PC作業程度には机に戻っています。
今までは、仕事でも早朝都合よく行けるなど殆ど選挙には行って来たのですが、
今回ばかりは「期日前投票」を利用すれば良かったかなぁ、と初めて思いました。
投票所(近所の小学校)に人がかなり並んでる!
参議院が全国区比例、という制度のせいで、名簿に候補者が多過ぎるんですね。
年配の方にはギリギリの文字の大きさだったかと思います。
加えて自分の住む地域では地方議会議員選挙もありましたので。
朝方は私よりも若い方はあまりお見かけしませんでした。
ココで漫画の記事でも度々取り上げている、国会での「児童ポルノ法」や
東京都の「青少年育成条例改正案」と、表現規制の問題。
今回は個人的にこの問題を焦点に絞って投票に臨みました。
珍しく、支持政党とか従来の政策などと別にして。
連日新聞などで比較的大きく取り上げられている、政治とカネの問題や、
普天間問題や消費税、社会福祉問題には全く見向きせず・・というわけではないのですが。
果たして東京都の「30号議案」は6月の議会で否決されましたが―
(まだ秋から2回ほどあるので分かりません。
今回の都議会議長だった田中良氏は辞職して杉並区長に立候補という展開になっていますし・・)
はてさて、国政の方の結果はどうなるか・・
このまま夜か明日にでも追記すると思います。
----
・・体調は回復中。ラクガキや片手間仕事、PC作業程度には机に戻っています。
2010/04/28
コッカイ大荒れ

ロシア海軍を黒海に駐留させる期間を
延長したせいで、
野党が卵をぶつける、発炎筒を焚く(!笑;)と大騒ぎに。
BBCのトップニュースで動画も上がってますが・・
凄い・・
(今の)日本(の国会)って大人しいなぁ・・
2010/04/27
スペースシャトル・ミッション

良く読みに行く彩賀ゆうさんの似顔日記で
山崎さんの記事を拝見した序でに、
他所でもこの夢の夫婦のお話をつまみ読み・・
確かに向井さんは男性に負けない感じ、
山崎さんは女性らしさが香る感じです。
(それ何って訊かれるとジェンダー差別発言に
なり兼ねないので控えますが・・(笑))
しかし「宇宙から帰って来る」って言い方、すげぇなァ・・
宇宙へ行く!と頑張る気持ちはものすご~く分かります。