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2010/12/08

お国のために~曹洞宗の戦争・中泉智法僧の記事

今朝(12/8)の東京新聞朝刊の特報面に興味深い記事が載っていました。

先日の東京中野での都の健全育成条例改正案に反対する集会の記事が取り上げられているその横に、
『仏教の戦争責任を問う』と題して、南京事件当初から従軍した、
曹洞宗の中泉智法(なかいずみちほう)僧侶という方について言及してあります。
現在の一戸彰晃(いちのへしょうこう)住職の著作「曹洞宗の戦争」も紹介されています。



 皇化一如大乗戦

中泉僧侶が旧日本軍の南京入城に参列した際の漢詩の一部です。
仏の道、命の大事さを教え説く筈の僧侶や宗教が、
その当時、「お国のために死ぬ」ことを説いています。

国全土が、戦争に向かい、戦局が悪化していく中、
戦地に赴いた僧侶たちは、どんな思いで自国や他国の累々たる屍に手を合わせたでしょうか。

1939年、当時の平沼内閣は宗教団体法を制定し、戦争に宗教を利用しようとしたと言われています。

私はだいぶ以前、湾岸危機に際して、自衛隊の特別措置法案が国会を通ることを憂え、
国内の世間の目が当時、パナウェーブという団体の騒動のどさくさに向いていることを揶揄し、
日の丸掲揚・国歌斉唱の義務が推奨されたとき、反した教諭の気持ちも応援し、
恣意的な記述の見られる歴史教科書の使用にもやはり反対の署名もし、
長野での五輪聖火リレーもこの目で観に行って来ました。

関東大震災のとき「朝鮮人は危険だ」というデマで彼らが迫害を受けたされる話も聞くと、
大衆がある扇動に乗って取り返しのつかぬ、あらぬ方向へ走るのをとても危惧します。

自分が迫害される立場にならぬ限り、なかなか人は流れに逆らえません。
しかし既に弱者と見做されると、とき既に遅し、その声は大流に押し流されてしまう。
誰一人としてその声に耳を貸さず、大方の者が自らとは無関係、我関せずと目を逸らす。

常に人の全てが平等で平穏であるのは難しい。
それゆえ、問題があれば対話が必要です。
喩え同じ言語でも、対話の通じない世界になったとき、迫害を恐れて声を上げるのをやめるか否か。
反対の声を上げるだけでは能がないと思われがちだが、小さな声に耳を傾けるのができないと、
そしてその声すら上げることができないと、国の民意という大きな舵は傾くことがあります。

ナチスという組織が、貧困にあえぐ国内ゲルマン大衆の心を掌握した挙句、
やがて大罪を犯してしまうまで、多くの声が失われていったことは史実です。

近年、そういうことが頻々に起きつつあります。
我々が気付かないこと、関心のない(と思われる)ことが、
気付かない場所で、こっそり取り決められたり、数で押し切られてしまっているような・・。

それでも私は、声を上げるのを止めるべきではないと思っています。
やめる気もありません。
[Column] -想うこと-

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