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2006/04/02

【二人の自分】 「なぜ犯行に及んだか」

<川崎男児転落死事件>

容疑者が出頭して逮捕された。

家族、子供がいること。
リストラされていたこと。
うつ病疾患であったこと。

事実が色々明らかになって、動機が取り沙汰されている。
多くの識者と名乗る者が原因や対策について話している。
皆が事件の経緯について知りたいと思い、そして憶測する。

報道の記者の鉄則に「読者の知りたいことを伝える」がある。
今回に照らして言うと、衆目されるのは「動機」だ。

「なぜ犯行に及んだか」

容疑の方の犯行が確定したとして、果たして犯した経緯を読んでみても
推測の域を出ないことに変わりはない。
ただ、事件に鑑みて、ここのところ思うことがあったので記す。

犯行の衝動はいきなり突然やってはこない。
仮に、暴力や傷害の場合、見知らぬ者同士に何かしら諍いがあったとき、
そのどちらかに非があるなしと別にして、
その者同士の性格や、普段の生活なども関係するだろうと思うからだ。

温和な人が何も無しに突然暴力に走るだろうか。

例えば妻子に危害を加える、という人は、
果たしてでは結婚する前から必ずしも暴力的であったろうか。
極端な話、結婚式で奥さんを殴ったりはしない筈だ。
その後生活に対する苦痛や重圧が存在したり、
病や身体的な問題が絡んできているかもしれない。

小さな児童に危害を加える人は、
常に生きているもの全てを憎んでいるだろうか。
何かしら不満や、幼少時の遠因、家庭や家族関係、育った経緯に
歪んで矯正されなかった部分があった筈だ。

何にせよ、充足して不自由のない(精神的)生活が原因になる、
などということは考えられない筈だ。

全てがそうだとは言わない。
明らかに特異な人もいるだろう。

でも私は思う。
それは誰もが持ち、心の中に存在させていることなのではないか、と。

温和で充足していれば、
不満を弱者に向けることはない筈だ。

ところが闇に陥ってしまうと、
自分の脆弱さや、生活的不満、精神的に満たされない部分の
責任をすり替えてしまったり、
またそうして弱者にぶつけて、うさを晴らすという、
“不健康な”満足を得ようとしてしまう。
当然、その歪んだ精神的健康の維持のために、
また同じことをせねばならない。

日常、生活していて、
不満と充足の天秤の釣り合いが上手くとれているか、
充足度の方が上回っている人、
また、“健康的”(つまり合法的)に不満を解消している人は
そうした闇を普段見ることがない。

しかし、内在させていることに違いはない。

人は誰しも罪を犯す、ということではない。

持っている心の闇を理性で制御できているかどうかが問題だ。

ここにいるのは、
確かに犠牲者が子供であったことは否めないものの、
何でもかんでも殺傷しようと言う、
どこかのステレオ的な映画や漫画に出てくる猟奇犯ではない筈だ。

逆に同様、私たちの中にも、
猟奇とまでいかずとも、あるとき激昂や憤怒のあまり、
モノやイキモノや、人に当たってしまうという
そんな部分がないとは言い切れない筈だ。

例えば食事やお酒、買い物をしたりして、そのバランスを上手く保っている人がいよう。
友人や家族など、話す相手を持ち、心のケアをできる環境にいるかもしれない。

仮に、痴漢をする心理があるとする。
万引きをしてしまう心理があるとする。
痴漢行為について言えば、
本能が理性を上回っていなければしないことと人は言う。
万引きについて言えば、
常識的に考えれば、善悪の判断がつけばしないと人は言う。

しかし、人は必ずしも常に
理性的に、社会常識的に行動し考えているわけではない。
また、犯罪にならないところで
非社会的、非常識的な行為をしていることもある。

壁の身勝手な落書き。
道路などに無造作に捨てられたゴミ。
放置された自転車。
ちょっとした信号無視。

自分の中の常識的範囲の判断で、理性は関係ない。
その人たちがでは犯罪の予備軍かというとそうではない。
今までそういうことをした人も、それが大事件として報道されない、
また、犯人として名指しされないから、
忘れて、許されたとして(自身の中で許して)
再び同じ社会的過ちをしていることに
実は気付いていないだけではないか。

いや、それはおかしい、
今回の事件や容疑者と、痴漢や万引きとは違う。
ゴミを捨てる行為とは全く異なる。
一緒にするのはお門違いだ。
――そういう声はあると思う。

常識を逸脱しているのだから、
反社会的で、許されない行為を容認するのか。
重い刑罰を与え、しかるべき対策を社会や地域でとるべきだ。
そう言われるのが尤もな気がする。

では、・・
この事件の容疑者は非人間的な怪物なのだろうか。
そうした人に対処する“防犯対策”のために、マンションや学校を
要塞のように堅固にし、
子供たちには日々、「知らない大人を見たら犯罪者だと思え」と
教え続けていけばいいのだろうか。

のっぴきならないことが起きた。
ままならない怒りが沸き起こった。
理不尽な人に仕打ちに腹が立った。
日々のことが許せなくなった。
不満であることを解決するのに、
既に自身の努力の範疇を超えた・・・・

こんなとき、闇の重さは天秤針を一気に傾けてしまわないか。

例え、温和な人であっても。
例え、家族がいても。

私自身、誰かなり、弱者なりを突然何のためらいもなく
殺傷してしまわないという自信は全くない。

そういう面を持っていることを知っているから。

私は努めて人と会ったときや街中で
ツマラナイ、と思わないように、何かしら得ようとしている。
僅かでも自分の糧に、オミヤゲに持ち帰ろうと、
楽しく生産的であろうと考えている。
自分と仲良くしようとしている。

それはしかし、裏返せば、
理性的な自分と仲良くしているだけなのだと怖くも思う。

電車の中で落ちていた空き缶を拾って、
降りる駅で捨てるのになかなか捨て場がなくて、
二人の自分が許したり怒ったり。
体の不自由な人を案内しようとしたら断られて、
また二人がちょっと恥ずかしがったり舌打ちをしていたり。

そういうとき、勝手に喋らせているけれど、
行為の大権限を理性的でないもう一人に
渡さないようにだけはしないとならない。


最近、私は家族と殆ど話をしない。
自分の中で話していることを、
一々前に戻って
噛み砕いて説明するのも、報告するのも面倒なのだ。

自分だけわかっていればいいと思っている。

その自分の中の闇であるもう一人よりも、
それ以上に話さない相手は、
例え血縁であっても家族であっても、
「自分」の「敵」になってしまう可能性が高い。

せめて日々の小さなことを少しでも話せたら、と思う。
友人がいるけれど、いつも一緒と言うわけではない。
一緒でも、当然傍にしょっちゅういるわけではない。



いつ針が傾いてしまうか、そんな時が
はっきり 「ない」、とは
事件の傍観者でしかない私でさえ
決して言い切れはしない。




(この文は決して被害者の方並びに関係者の方のご心労を冒涜するわけでも、
 また、容疑者の擁護をする意図で記したものではありません)

[Column] -想うこと-