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2007/08/12

【ルドンの黒】と無償の代償

(長いこと放置していてスイマセン)

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渋谷でやっているルドン展を観て来ました。


基本的に版画(リトグラフやエッチング)なんですが、非常に魅力的でした。
ルドンはカラー(油彩)が素敵なのですが、詩集の挿絵に使われた版画や、
初期の木炭画のモノクロのインパクトもなかなかのものでした。
特に木炭画。
リトグラフの元も多分木炭か何かなのだと思いますが、
不思議なディテールに明暗のコントラスト、
塗りこめられた画面のなんとも言えない異様な迫力、
漠然としつつ暗鬱でしかし叫びに似たような重い雰囲気・・・
リトグラフでの鉄筆で引っ掻いたような白い線など、
現物(原画)の良さをまたまざまざと堪能して来ました。

幼少期の生い立ちのせいか、初期の作品は本当に良かったです。
詩集に寄せた絵は膨大な作品数もあってか、
中には相当制作時間が短かっただろうと窺わせるものもありましたが。
木炭の顔のある芽の絵が非常に気に入り、何度も見に戻りました。
残念ながらその作品はポストカードすらありませんでしたが・・。



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さて・・・
秋と来年に向けて作品を少しずつ制作中です。
(受注している作品やサイトの方もなかなか手付かずで申し訳ありません)

ここ数ヶ月、大きな動きはなかったのですが
(私自身があまり仕事など忙殺で動いてないのですが(苦笑))
色々気になることはあったり、人から伺ったりしておりました。

商業デザインの話ですが・・
相手(クライアント)の意図を聞き分ける・・というのは
基本であることは言わずもがな、ですが、
なかなかプレゼンで依頼主との間でこちら側のオリジナリティの主張と、
コンセプトの合致が見出せないこともあります。
基本はモノが売れることが目的なので、売れるためにデザインがある。
そのためには商品を知らないとなりません。
その一方で、他との差別化がないと抜きん出てこない。
じゃあオリジナルって何だ、という話になります。
平凡であってはいけないのは元より、あまりに奇抜でもいけないし、あまりに先走ってもいけない。

アートディレクターの佐藤可士和氏(国立新美術館のロゴデザインなど)や
秋山具義氏(ほぼ日刊イトイ新聞など)のお話の中に、
たいへん参考になった言葉があります。

よく観察すること。つまりはデッサンである、―と。

模倣はダメだけれど、模倣から始まるものがある。
例えばかつて画家たちは美術館などに通い、名画を模写して技術の会得を図ろうとしましたし、
写真のない時代は何時間も何日も、モデルに同じポーズをさせていたと聞きます。
その中に自ら見出すことのできる何かを掴む。
それがオリジナリティに繋がっていくのかも知れません。

商品を知る、つまりはマーケティングが必要であり、
そしてデザインに際し、本質を突き詰める。
そうすることで、非常にシンプルな「個性」が見えてくるのではないか、と。
デッサンは技術的には基礎ですが、
突き詰めて追求すると、その対象に何かの確固たる「個」が見えてくる、
そんな気がします。

特に人物は、その顔形や表情に、その人の生き様を反映し、
その写実される瞬間にも、多くの感情を秘めています。
そして、描く側の感情やテーマも、その人物に投影されて描かれるわけですね。
そうして出来上がるのが、ある個人を通した作家の「個性」なのではないか、と。

例えば“似顔絵”、“肖像”と言い方は色々あれ、
また、ディフォルメされた漫画絵のようなものもありますが、
それらは全て作家が個を通して個人を描いて出来上がった、
他人と違うその人である「個性」なわけです。

私は人からよく「誰?」とか「誰の(誰を描いた)絵?」と言われることがありますが、
聞かれた私自身がその対象の人物に似ている似てないということを気にしてしまう以前に、
実は聞いてくださった方はその対象を見ていないことがよくあって驚かされます。
その人物を知らない、のではなく(そういうことも私自身含めて(笑)ありますが)、
対象がどうであることよりも、まず絵を見てくださっている、ということです。

だから、誰を描いたのか、尋ねてくださるのですね。
その時点で、私が描いたことは私の「個性」として認められたことになります。
それは非常に嬉しいことです。

だから逆に、
「簡単でいいから」とか「上手く描いて」と言われると、たいへん困ってしまいます。
ありがたい申し出なのですが、
“誰が描いてもいいので肖像画が欲しい”と言った雰囲気で申し出されるのは、
正直困惑してしまいます。
そうしたご依頼については請けかねるので、丁重にお断りせざるをえません。


先の、佐藤可士和氏のお話の中に、
「日本にはアートの市場がない」という言葉がありました。

村上隆氏などは、日本の市場にアートを浸透させようと努力されていらっしゃいますが、
過日の「AERA」誌にあった、新しいアーティストを捜せ、という内容の記事を読む限りでは、
それはやはり私(たち)が考えているのと違うところに存在するような気がしてなりません。
一部の富裕な方がコレクションとして所有することは、
作家の生活を考えるとたいへん喜ばしいことなのですが、
まるきり普通の、より多くの方が体感する、文化や思想、
日常の生活の中での「アート」とはかけ離れているような気がするのです。

例えば、どの家にも絵が飾ってあるでしょうか。
それはカレンダー程度でしょうか。
学校で習う「美術」という授業では、私たちは、子供たちは、
ふだん何を習って(教わって)いるでしょうか。
家にあるアートはパッケージ、つまり既成化された商品であり、
習うのは技術や集中力といった鍛錬についてではないでしょうか。

そこに、見返りを求めない、精神的裕福さを求める観点がなければ、
その全てはアートとしての価値は皆無だと思います。
私たちはすぐ、何にでも答えや意味を見出そうとしてしまう。
経済的意味のないもの、生活にカタチとして存在しないものは、
衣食住の二の次三の次となり、価値判断をし兼ねるのが常です。

有形でないものでしかし、お腹がいっぱいになることもある筈です。
例えば映画を見たり、遊戯施設でもいい。
そして、少し背伸びして、語れない良さを知ってもいい。
なんとも言えないけれど、好きであること、何かいいな、と思えること。
そうした満足で、人と違う喜びを知る。
他人にはわからないけれど、でも自分はいいと思う・・・

それが「個」を感じることであり、個性を育てることではないかと思います。
つまりは無償の満足、
有益である、他人との差別感。

無償の代償。

個性を主張することではその時点で、
何か(例えば他人との協調など)を失うものの、
代償に自身の個人を信じたり自信を持ったりする意思は育まれます。

他人と同じ評価の中で、同じ技術や鍛錬といった点数の優劣に囚われ、
組織での協調を優先し、自身の主張を押し込めることに終始してきた教育には、
多少欠陥がある(個性を育てる意味では機能していない)とは言え、
しかし、好きであることを主張するなとも、選択するなとも、言っていません。
そこまで教育は否定してはいません。
本質は自由である社会なのです。

その社会の中で、アートは若干パッケージにカタチを変えていますが、
先の方々のように、選択することへの指針の一つにし、
それをなりわいとしていらっしゃる方もいます。
それは今日の日本において、十分アートであると言えます。

そして、私たち。

例えば、人に親切にすることは、無償です。
しかし、そうして得られた充足や満足や慈愛の気持ちは、
人の精神をずっとずっと豊かにします。

教育や社会はそれを押さえつけてはいませんし、
むしろ人々はその関係を求めている。
人々は皆、そうした精神の社会に生きたいと願っている筈です。


今はパッケージ化されたものを選択するだけかも知れません。
ですが、
もし、無償の(飲み物でも食べ物でもない、実用的でもない)ものを
貴方が欲しいと思ったら、
それは精神のためだと思うことが、きっと個性を感じるときだと、
そう思います。

たまには、絵を眺めてみてください。

勿論、わざわざ美術館に出かける必要はありません・・。
[ART] -絵・アート-